愛知の岡崎市に佇むモノトーンのお城、岡崎城。康生元年(1455年)に西郷頼嗣によって築城されたのが始まりで、松平清康(家康さんのおじいさま)が龍頭山と呼ばれた現在の康生町にお城を移して以来、岡崎城と呼ばれていますが、当時の龍頭山の名残から、別名.竜ヶ城(りゅうがじょう)としても親しまれています。すっきりした佇まいの5階建てのお城です。
岡崎城で産声をあげた家康公、平和への礎を創りあげた徳川家康さんの天下統一の背景には、三河の武士達の尽力と愛が溢れています。天下統一の礎が築けたのも「皆のおかげ」という、家康公がもっとも感謝し大切にした、三河の武士達と、自分を育ててくれた地元への愛。そして、大切な人達を大切にする心など、今でもその心は時を越え語り伝えられています。
小学生の頃、色々な人物の伝記本などを読むのが好きだったのですが、家康公の「侍魂」、何となく子供心にでも素敵な何かを感じ、私にとってのサムライ興味の始まりの武将でもあります。
天文11年(1542年)徳川家康公は、松平8代広忠の長男として、こちらの岡崎城にて誕生し「竹千代」と名付けられました。6歳からの12年間は、織田信秀(信長さんのお父様)と、今川義元の人質としての生活を送ります。人質生活のなかでも、家康は色々なお稽古をしていたと言われ、岡崎には、そんな家康が、弓のお稽古をされていたと言われる、徳王稲荷社.金刀比羅社と呼ばれる神社(別名お稽古の神様)も今でも大切に愛されています。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元が戦死をしてしまった事から、19歳に自立し、家康公は、岡崎城を拠点に天下統一への基礎を固め始めました。
その後、家康公は本拠地を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、その後の岡崎城は、徳川信康が守りました。天正18年(1590年)家康が、豊臣秀吉さんにより、関東へ移された時も、秀吉さんの家臣田中吉政さんに岡崎城主をお願いし、1600年に関ヶ原の戦いで石田三成を破り、征夷大将軍となり江戸に幕府を開いてからも、譜代大名達に岡崎城をしっかりと守っていただいていました。
色々な大名達のおかげもあり、岡崎城は守られたのですね。
岡崎城を守り続けた歴代の城主
西郷頼嗣 松平光重 松平信定 松平清康 1524年~ 松平広忠 1535年~ 徳川家康 1560年~ 松平信康 1570年~ 田中吉政 1590年~ 本多康重 1601年~ 本多康紀 1611年~ 本多忠利 1623年~ 本多利長 1645年~ 水野忠善 1645年~ 水野忠春 1676年~ 水野忠光 1692年~ 水野忠之 1699年~ 水野忠輝 1730年~ 水野忠辰 1737年~ 水野忠任 1752年~ 松平康福 1762年~ 本多忠粛 1769年~ 本多忠典 1777年~ 本多忠顕 1790年~ 本多忠考 1821年~ 本多忠民 1835年~ 本多忠直 1869年~
歴史の事など、今回記した年号などを記すときは、参考文献から記しています。徳川に関するものなどこの辺りもなかなか面白いです。もしも武士好きな方がいらっしゃれば。
右上から時計回りに、
*大江戸武士の作法 (小和田哲男)GB
*家康を支えた三河武士 本多忠勝 井伊直政 (市橋章男)正文館
*面白い武士道 時代とともに受け継がれた日本人の精神の源流(森良之祐)日本文芸社
*サムライたちの辞世の句(初田景都.大友宗哉)辰巳出版
(こちら短歌や和歌が好きな方にも面白いです。解説がユニーク!あくまでも私の個人的な感想の、お気に入りの一冊です。)
*家康の江戸 江戸のあれこれ 新人物往来社
そして、家康さんは健康オタクだったとも(^ー^)
そして、面白いなあと思った、三大大名の句より。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」徳川家康 鳴くまで待つ現実的な家康さん。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」織田信長さん この決断の早さと潔さが信長さんならではの魅力ですね。
「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」豊臣秀吉さん。ロマンチストですね。
どの武将もその武将にしかない持ち味があり、各々が魅力的です。
サムライの句の後にこちらの一首もなんですが、何でも手放しでも楽しめる、この時代に生きていられてありがたく思います。
そして、楽しみながらも、つまづくことも多々です(^ー^)
ただ時に枝がふんにゃりしなるような時が、あっても、平常心に戻るすべが、日本人のDNAには何処か刻まれてもいるから、だから皆、大丈夫とも思っています。
明日は何を着て何をしますか?(^ー^)
よき日をお過ごしください。
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